体育祭2016 ”『結果の向こう側』へ!”
★ 生徒広報委員が見た、体育祭の様子をお伝えします! ★
※書いたり消したり、全体的に推敲を繰り返した文章ですが、読みづらさに関してはご了承ください…。
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定期テストが終わり、体育祭の練習が始まると、自分のクラス(3組)のみんなはそろって
(やりたくない…)
ムードを醸し出すのでした。
というのも、うちのクラスはそこまで運動に特化している訳でもなく、そのため“結果の出ない”体育祭はどうしても避けがちだったのです。
しかし「学校行事はそんなつまらないもので良いのか?」と。「“早く終われ”と思っているような、そんな学校行事で良いのか?」。「結果だけに目がいく行事は果たして『学校行事』と言えるのか?」。
僕は関一祭幹部に属していて、昨年度は実行委員長を務めさせてもらった経験から、学校行事の見方が大いに変わりました。
「シンプルに楽しい」とか「悔しい」とか、それだけではなく、それの向こう側も大事なんだと。
生半可な練習や準備しかしていなければ、終わったときに勝っても負けても「楽しい」とか「悔しかった」などとしか思えない(上図青矢印の部分)。
しかし、本気でやりきって、練習に真摯に向き合えば、終わってどんな結果が出ようと、「楽しい」「悔しい」に加えて、その『向こう側の世界』にあるものが見えてくる(赤矢印の部分)。例えば“仲間の大切さ”を改めて感じた、というのは、この『向こう側』にあるものだと思うんです。
ただ、その『向こう側』に何があるか、現段階でははっきりと分からないけど、それでも確かに、そこに大事なものが隠れている。
↑ 大繩の練習風景
その世界を見て、何があるかを知ることが、自分は学校行事の真髄だと思うわけです。ただの力の比べ合いに終始するようなもので済ませたくなかったのです。
だから、せめて自分のクラスだけでも…と思い、朝練や放課後練は自分の練習の合間を縫って指示出しをしたり、7時半ごろまで残って練習したり、近くの土手に行って脚が悲鳴を上げるまでバトンの練習をしたり…。
そしてHRで時間を借りたり、プリントを作ったりして、“普段は見れない『向こう側』の世界をみんなで見れるように”、そして自分も『向こう側』にたどり付けるように、自分なりに努力をしてきたつもりです。次第にみんなも、それに力を貸してくれるようになりました。
↑ 騎馬戦の作戦決めの様子
さらに、クラス単位で独立しがちな体育祭で「新しいことをやりたい!」と思って、自分たちと同じカラー(緑)の3年のクラスで集合写真を撮ろう、というものも計画しました。
すべては『向こう側』ために。自分にできることをして、一人でも多くの人に楽しんでもらえるような、そんなことをするために。
そうこうしているうちに、あっという間に本番がやってきました。
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↑ [上]2組 [下]3組
大繩では、1つ前に飛んだ同色の2組がぶっちぎりの記録を作り、それに触発された?のか、(結果はまずまずでしたが)練習の記録を大幅に超え、目には涙が溜まりだしました(笑)
↑ 騎馬戦(3年女子)
↑ 棒倒し(3年男子)
その後の騎馬戦や棒倒しなどでも、さわやかな緑色が競技場を縦横無尽に駆け抜けているのを見て、心身ともに激アツな体育祭でした。
4クラス合同で写真も撮れて、江戸陸に後悔を残すことなく終えることができました。
楽しかったです。めちゃくちゃ楽しかったです。
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でも…その反面、複雑な思いでした。
クラスメートや、競争相手の多色や他学級の友人が流した、普段見せないような涙は、決して見ていて気持ち良いものではありませんでした。
その子に掛けたいたくさんの言葉は、その涙の前ですべて吹っ飛びました。
家に帰っても、ずっとあの時の涙のことがグルグル頭の中で回っていました。
そして、気づいたこと。
これこそが『結果の向こう側』なんじゃないだろうかと。
真剣にやった分だけ、そこに笑顔があり、
真剣にやった分だけ、そこに涙がある。
そんなことを、改めて気づかされたのです。
同情をしたいわけではありません。
ただ、その涙は本当に綺麗でした。素敵な目をしていました。
一人ひとりが、本当に本当に、本当にかっこよかった。
そこにあったのは単純な力の比べ合いで終始する体育祭ではなく、その壁を超えたものでした。
ここは、関イチ。
元気に、本気にイチバンな先生と生徒に囲まれ、今日も幸せです。
P.S.
これを見ている3年生、俺たちの最後の文化祭は、最高のものを創り上げられるよう、責任もってやり遂げます!よろしく!!
写真・文責:広報&関一祭幹部 D.Y